
VPN構築を映し出す鏡
一方、通産省には原子力予算打ち合わせ会が発足、さらにト・一月には原子力調査問が海外に派遣された。
調査は三か月に及ぶ長期のもので欧米十二か国を訪問、わが国の原子力政策の方向を模索した。
一九五五年になると状況は加速する。
同年八月にはジュネーブでは第一回原子力平和利用国際会議が聞かれ、十一月には日米原子力協定が締結され、十二月には現在の原子力行政の骨格が整う。
自主、民主、公開を三原則とする「原子力基本法」、「原子力委員会設置法へそれに原子力局を新設する「総理府設置法の一部改正」も成立した。
具体的な平和利用の第一段階は日米原子力協定に基づき、濃縮ウランと実験用原子炉の受け入れで、このために財団法人日本原子力研究所が設立され、さらに翌年には同研究所は特殊法人に衣替えされる。
さらに一九五七年八月には日本原子力研究所がわが国初のJRRの臨界に成功、日本で初めて「原子力の火」を灯すことができた。
それでも商業問原子力への道はまだまだ長かった。
この十年の曲折も激しかった。
最大の問題は国産か、輸入か、という問題だった。
原子力委員会は当初、国産に傾く。
エネルギーの自立として当然だったろう。
しかし、それには時間がかかる。
自前の技術がほぼないという状態では見通しすらつかない。
できるだけ早期に実用化を目指すのであれば、輸入が現実的だった。
結論は「国産化を目指すが、当而、外国からの積械的な技術輸入と相当規模の原子力プラントを輸入する」となった。
第一次訪英調査団がイギリスのコールダーホール型の導入が妥当という報告を提出、第一号輸入の方向が定まる。
しかし、これでも問題がなくなったわけではない。
今度は輸入体制が問題になってきた。
原子力委員会は民営論だったが、政府サイドには原子力の経済性に懸念があり、財政資金による輸入を主張する向きも多く、その主体として電源開発会杜が浮上するという状況もあった。
しかし、最終的にはその折衷ともいえる形に落ち着き、政府出資二〇%、電力会社など民間八〇%出資によって日本原子力発電株式会社の設立が閣議決定され、原子力開発の民間主導が確立したのであった。
初の商業用原子力東海一号機東海村といえばJCOの臨界事故によって厳しい状況にあるが、この東海村はまた日本の原子力発電の発祥地でもある。
それはこの村にある日本原子力発電株式会社の東海一号機がわが国最初の商業用原子力発電所だったからである。
そして今、その役割を終えて解体へ向けての作業が進められている。
とはいえ東海一号機といっても今ではそれをよく知る人は必ずしも多く・ないだろう。
しかし、その存在を抜きにしては日本の原子力を語ることはできない。
二〇〇〇年四月現在、日本では五十二基の原子力が稼働しているが、その第一歩がこの東海一号機だった。
日本のエネルギー問題にとって極めて大きな意味をもっているのは当然のことだろう。
導入時、最も問題になったのはいったい、どこから、どういう型にするか、どこが建設主体に、という基本的なものだった。
これらの決まりようで、日本の原子力路線が決定するのだから、ひとつの事件といってもよかった。
一九五〇年代、戦後十年が過ぎようとしていた。
当初は日本が独自に研究を進めて自らの力で原子力を持つ方向が模索された。
しかし、経済成長が見え始めてきていただけに待っている時間の余裕がない。
そこで一転して輸入が決まる。
その方向を決定づけたのが一九五六年に派遣された訪英調査団だ。
この調査団が「イギリスのコールダーホール型が適当」という報告を出したことで、大きく動き出す。
五七年に原子力委員会はこの報告に基づき、コールダーホールの改良型が適当との結論を出す。
それとともに導入体制が決まる。
輸入主体として九電力会社と電源開発会社、それに電機メーカーなどによって日本原子力発電株式会社が設立された。
これもすんなり決まったわけではない。
政府系電力会社である電源開発が全面的に担当するという案があり、通産省、電源開発と九電力の間で相当の確執が生まれた。
原子力開発が政府主導になるか、民間主導になるかの分かれ目となったのである。
それに建設費用も問題だった。
当初予想の三百五十億円が四百六十五億円に跳ね上がったからである。
しかし、そうした問題を抱えながらも、一九六六年七月に東海原子力発電所一号機が営業運転を始めた。
原子力発電がついに家庭に電気を送り出した、とマスコミが大々的に報道、大きな関心を集めた。
輸入されたコールダーホール改良型は天然ウランを燃料として、中性子のスピードを落とす減速材に黒鉛を、炉の冷却には炭酸ガスを使う。
出力は十六万六千キロワット。
今、原子力の出力は百五十万キロワット台も計画されている。
その意味では控え目な規模だったということができるだろう。
しかし、このコールダーホール改良明の輸入は終わった。
それまで核拡散の観点から以子力の輸出を禁止してきたアメリカが減速材に水を使う軒水炉の輸出を認めるという原子力政策の変更をしたことによる。
その後の導入はアメリカの沸騰水型軽水炉と加圧水担軽水炉が主流となった。
この状況変化から、日本原子力発電が、一日万機完成前に導入を決めた敦賀原子力発電所一号機はアメリカのゼネラル・エレクトリック社からの輸入となるBWRとなった。
多くの以子力技術者がここで技術を刊利した。
商業炉としては、これもわが国、初の解体となる。
実はまたここでも原子力技術にとって大きな意味を持ってくる。
初の解体であり、今後の解体に大きな参考資料を残すことになるからで、燃料の取り出し、施設の密封管理などの過程を経て解体となるが、その後の放射性廃棄物の処理、非放射性廃棄物の処理などがモデルケースとして注目されているのだ。
それに問題はその費用だ。
廃炉には最低でも一法約一二百億円杭皮が必要と試算されており、九〇年度から「原子M発電施設解体準備制度」が創設され、逆転別問中に必要経授の八五%までを柏みJてることが認められた。
東海一号機はパイオニアとして登場、今、老兵として完全に消えつつあるが、な役割を担ったことはまちがいない。
ひとつの肘史的日章丸「全捕はあっても撃沈はない」アラビア石油の成功は日本の石油開発分野における快挙だったが、もうひとつ戦後石油史にその名を止めるものとして「日章丸事件」と呼ばれる事件があった。
現在のエネルギー問題を考える際にその経緯はひとつの視点として記憶に止められるべきなのだろう。
一九五二年のサンフランシスコ講和条約発効で日本は独立した。
当然、それまで石油政策もGHQの支配下にあったが、独立とともに日本に移管される。
しかし、石油はすでに欧米メジャーによって完全にコントロールされて、日本のような消費国はむろん、産油国も'身動きならずという状態が続いていた。
消費国は自由な輸入さえままならぬという状態だったのだ。
今、「メジャー」を言葉にしてもその力の巨大さがすぐにイメージできないだろうが、当時「メジャー」は巨大産業そのものを意味していたといっても過言ではない。
「日章丸事件」とは、そんなメジャー体制に日本の一石油会社が果敢に挑んだ事件だった。
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